『 命日 』によせて
今日は母の7回目の命日です。
〝 元気 〟がトレードマークだった母に異変が見られるようになったのは、今から10年ほど
前のこと…。
でも最初のうち、それは本当に取るに足りない事のように思えたのです…。
「 何言ってるの! しっかりしてよ!! 気のせい気のせい!!! 」
私は忙しさを理由に、そんな言葉で片づけてしまい、母の心と身体に寄り添うことをせず…。
母のことだ、すぐに元気を取り戻してくれると、勝手に思い込んでいたのです…。
しかし母の状況は階段を転げ落ちるように悪化し、とうとう寝たきりになってしまいました。
なんでこんなことになるの?
あちこちの病院で診察してもらっても、原因はわからない…。
これが現実のことだとはとても思えませんでした。
そんな母は病院や施設に入ることを強く拒否していました。
「 家にいたい ! 」
私たちに出来ることは、そう訴える母の願いを受け入れることしかありませんでした。
なかでも、同居していた父の献身的な介護は、ヘルパーさんたちにも絶賛されました。
実は父はこの数年前から癌を患っていました。
そしてそのことが、少なからず母のこの異変の原因だったのだろう、と私は思っています。
『 黙ってオレについてこい! 』 の代表選手だった父に、長きにわたって献身的に尽くしてきた
母が、人生の最期の月日を、父からの献身的な介護を受けて過ごしたということ…。
このことにも私は、なにか感じるものがあります。

これは我家の庭の紫陽花の花です。
一本の茎から、寄り添うように2つの花が咲いています。
私には、強いけど脆いところもあった父と、それを支え続けてきた母のように見え、仏壇に
お供えさせてもらいました。
さて、人が亡くなった日のことなのに〝 命日 〟命の日って、なんだか不思議ではありませんか。
一説によると、もともとは『 冥土に行った日 』 ということで、〝 冥日 〟と書いていたといいます。
その〝 メイ 〟の字を、音の同じ〝 命 〟に変えた人がいたという事ですね。
最期に、法事の時に僧侶から聞いたお話を一つご紹介いたします。
「 こちらの世界での人生の役割を終えて、あちらの世界で〝 命をもらった日 〟という意味で
命日です。 ですから白い死装束は、実は〝 あちら 〟で生まれる時の産着だとも言われてい
ます。」 というものです。
私は宗教家ではないですし、特に強い信仰を持ってもいません。
しかし、大切な人たちとのお別れを重ね、心理学を学べば学ぶほど、このような死生観に関す
るお話が心に響くようになりました。
そしてもう一つ、命日とは、残された者たちが、亡き人のことを偲びながら、自らの人生を、命と
いうものを、考える日でもあるのではないでしょうか。
私は、父や母に胸を張って報告できるような生き方をしているのだろうか…。
今という時間を大切に生きているだろうか…。
今日はそんなことを改めて思いながら、母に、そして父にも、心からの感謝を伝えて、一日を過
ごしました。
明日からはまた新しい月が始まります。